私は人生で一番不幸なことは、何も知らないことだろう。
不幸とは何なのか?という疑問はあるだろうが、ここでは「つまらない人生」とでもしておく。何も知らなければ、狭い檻に守られる代わりに、その他の可能性を捨ててしまうことになる。
あなたは何かを知ることが好きだろうか?
例えば、政治の話。経済の話。芸能の話。車の話。国際問題、貧困、地球温暖化、宇宙の話。
例えば、今右手に持っているスマートフォン。そのデザイン、ハードの素材、カメラ、バッテリー、指を感知する仕組み、プログラミング。
私たちの身の回りには、自分が知らないことが無限に溢れている。
知らないこととは、あなたが知りたいと思えば、その多くはいくらでも調べられること(ちなみにこれは答えに辿り着けることと同じではない)。もしくは、別に知る必要などないと思えば、目もくれず、そのまま葬り去られるもの。
今、目の前にある何かを「分からない」「知らない」と知った時、あなたは何を感じるだろうか。
「なぜ空は青いのだろう?気になるな。」
「このパッケージ、何か惹かれるな。なぜだろう?」
「なぜ人は死ぬのだろうか。そもそも死とはなんだろうか。」
そんな風に、シンプルに純粋な関心を寄せる。自然科学だったり、マーケティングだったり、デザインだったり、哲学だったり。毎日何かに追われて生きる人は、馬鹿馬鹿しいと感じるかもしれない。
もちろん、目の前に現れる全ての物事に興味関心を払っていたら、身体も時間も足りないだろう。歳をとると特にそうかもしれない。
私達がまだ親の手を存分にかけるような頃、恐らくは目に映る殆どのことは新鮮で、世界が広がっていく感覚に酔いしれただろう。
不思議なことに、年月を重ねるごとに自分の世界は狭くなっていく。それはこの世の全てを知り得ないという諦めか、何処かでもう十分に満たされたと感じ、切り捨てていくからなのか。
「こんな小難しい話を知らなくても、別に死にはしない」。
「その仕組みを知って、何か私にメリットがあるのか?無駄な時間をとらせるな。」
「もうこりごりだ。何を言っているのか分からない。さようなら。」
「それは私になんの関係があるのか?」
わざわざ言葉にするとすれば、そんなところだろうか。何かに興味関心を払わないということは、ひとつ極端に言えば、それが生死に直結することではないからだろう。
もう少し現実的に言うと、それが「仕事に関わるかどうか」で興味関心を寄せるかどうかが決まることが多いだろう。
多くの人にとって仕事は金銭を得る手段であって、金銭の欠乏は現代社会においては死、死への恐怖、不安に繋がる。
漁船に乗る漁師が求める知識や情報は潮の流れや魚の生態などで、人が生きる理由や死ぬ理由、ネットワークが繋がる仕組みや半導体の製造プロセスなどではないだろう(漁師の皆さん、違っていたらごめんなさい)。もしそれを知ることで魚の群れを正確に捉えることができるなら、必死にその知識を身に着けるはずだ。
直接生死に関わらない、自分に利益がないと考えられるものに意識を割り当てないことは、限りある人生、時間の中でそれなりに合理的な判断だろう。
はっきりしているのはその知識や経験を自分の中に持っていない、存在していることさえ知らなければ、可能性は限りなくゼロに近くなる。稀に親切なのかお節介なのか、あなたが尋ねてもいないし知りたくもないことを勝手に教えてくれる人はいるが。
ただでさえ、人間は歳を取るに連れ、それまでの自分の経験を頼りに生きようとする。
経験で暖をとるようになると、その場所が快適になって次第に動けなくなる。それはそれで幸せなのかもしれない。自分の中で仕舞い切れるほどの人生だと割り切って、目を瞑るのも悪くないのだろう。
何かを積極的に知ろうとしてこなかった人たちは「自分の頃は」「昔はこうだった」などと言いだす。「知らない」ことで自分を守ってきたのだから、今更どうしようもない(もちろんその人は私ではないので、どう生きようが好きにすれば良いが、私は「つまらない」と感じるという話)。
あなたが自分の人生をもっと楽しみたいのなら、情報を集めて、知識をつけること、そして何事も経験してみることをおすすめする。あなたは自分の可能性を広げる手段を持っているのだ。
その可能性を無視して、何も知らないでいることは自分の世界を狭めていく。無限にある可能性も、その存在を知らなければ触れることはないし、触れても気付かない。ゼロを掛け算しているようなものだ。
自分の目の前に広がる可能性(未来と言ってもいい)を、自分で閉ざしているとすれば、こんな不幸なことはない。でももし、あなたが昨日までそうだったとしても問題はない。今日から、今から始めればいい。知らないことを知ったことが、何よりのスタートだから。