この世で一番幸せなのは、何も知らない事かもしれない。
世界を見渡してみれば、悲しいこと、憤りを感じることに溢れている。しかもそれらのほとんどは、自分自身ではどうにものできないことばかり。飢えに苦しむ人達、地球規模の環境問題、決して着地することのない主義主張のぶつかり合い。
もっと目の前のことで言えば、道端に佇むホームレス、重そうな荷物を抱えて歩く年配の人、地図を見ながら困惑している人、タバコを目の前で放り投げる人、紙ごみ用のダストボックスに詰め込まれたプラスチック。
でもそれらを、あなたが、私が、どうにかしないといけないわけではない。自分の意志で解決や改善に取り組むのは自由だけれど、それと同じように一切の関心を払わなくても、誰かに何かを言われる筋合いはない。
駅に向かう途中で募金を訴えかけてくる人の声に耳を傾けなくても、誰から非難を浴びることはないし、目の前で燻っているタバコの火はあなたが消して拾うことを意味しているわけではない。
でも最大の問題は、あなたが、私が既にその事実を「知っててしまった」り、「気づいてしまった」ことだ。一度知ってしまったが最後、記憶から消し去ることはできない。
そのあとに残された選択肢は、たとえ自分の力が及ばずとも何らかの行動に移すか、見て見ないふりをするかのどちらかだ。
ただし、実際にそのすべてを行動に移す人は少ないだろう。多くの人は例え自動車が地球環境にダメージを与えると認識していても(この認識が事実かどうか、あなたの理念信条と一致するかはまた別の話)車に乗るのをやめない。
今すぐ車を廃棄して、電車やバスなどの公共交通機関を使うか、自転車なり徒歩なり、自分の足で移動すれば、あなたが自動車に乗ったことによる環境への負荷は間違いなくなくなる。でも多くの人はそうしないだろう。
気持ちの良い落とし所としては、燃費の良いハイブリッドカーに乗って「環境に配慮している」という納得感を得るくらいだろう(そもそも環境負荷を考慮してハイブリッドカーを選んでいる人がどの程度いるのか疑問だが)。
募金も、あなたの気が向いた時に、あなたの気が済む程度の額をすればいい。タバコの火も燃え広がらないように、小さな子どもが転んでやけどしないように祈るくらいでいい。
結局、ほとんどの人は自分の利益や労力が許容される範囲でしか行動を移せない。でもそれは仕方のないこと。責めるつもりもなければ責める立場にもない。そこにあるのは、誰もが日々様々なことに目を瞑って生きているという事実。
多くの人はその事実が頭の片隅にありながらも、普段は意識しないで生活しているだろう。車に乗る度に罪悪感を感じたり、道端のペットボトルを拾わずに通り過ぎる度に自分の情けなさを感じているようでは日常生活は困難を極める。
目を瞑っている事実に背を向けつづけ、記憶の奥底にしまうことに成功すればしめたものだ。自分の感度を落とすことで、日々の生活はとても快適なものになる。
不幸にも、何処かのタイミングで目を瞑っている自分を思い出してしまったり、そんな自分がいる事に気づいてしまったら、また同じ作業の繰り返しだ。あなたが生きていくための落とし所を自分で探すしかない。
そう考えると、やはり一番幸せなのは、何も知らない事だろう。遠い異国で起きている争いに胸を痛めることもなければ、虚無感を感じることもない。何せ、知らないのだから。
とはいえ、こんなページを見ているのは、既に知ってしまった人達だろう。では、今日も頑張って落としどころを探していこう。