矛盾という言葉を好きな人は、自分の知る限り多くない。
以前に言ったことと、今言っていることのつじつまが合わない。この矛盾は、特に他者との関係の中では歓迎されない。なぜだろう。所謂嘘をついたことになるからだろうか。そして裏切られたと感じるからだろうか。
あなたの以前の言動を聞いた誰かが、あなたのことを信用したり信頼したりしたのに(程度の差はあれ)、あなたが以前のそれとは異なる、または相容れない言動をした時に「前はああ言ってたじゃないか」「言ってることとやってることが違うじゃないか」、そんな具合だろう。
約束を破られた、というあたりが近いかもしれない。でも勝手に約束した、と思っているのはそちらではないか。なんて思ったりもするが、ともかく、他者とのかかわりが避けられない多くの社会(一般社会と言おうか)において、自分の中の矛盾をあけすけにするのはお勧めしない。
理由や経緯がどうあれ、他者が原因で不利益を被るのは、それが取るに足らない一瞬のマイナス感情だとしても、多くの人は受け入れがたいだろう。きっと自分勝手なあなたもそうだろう、もちろん私も。
もし矛盾を発信するときは、それなりの準備と覚悟、そしてそれをもってしても受け入れられないという諦めが必要だろう。
さて、他者との関係はこのくらいにして、ここで言いたいのは、自分の気持ち、心の中にある矛盾は受け入れても良いではないか、ということだ。
これを読んでいるあなたが何歳かは分からないが、どんな人であれ、その人生を線で引いて点と点を比べてみれば、矛盾にあふれているではないか。
好きなものが嫌いになったり、得意なものが苦手になったり。またはどうでも良くなる。昔、あれほど熱中していたものが、今となってはほこりを被って、頭の片隅にも置かれていない。遊びであれ、仕事であれ、人間であれ、言われてそんなことやものがあったな、そんな奴もいたな、と思い出すことばかりだろう。
「忘れる」というのはまた別のテーマとして置いておく。今回は矛盾だ。
例えば、顔も見たくない、声も聴きたくないほど嫌だったあいつ。あの頃の自分の感情と今の自分の感情はどうだろう。その熱量は一緒だろうか。もし同じかそれ以上であれば、それは執着というまた別の才能かもしれない(皮肉である)。
人間の意志や考えの中で、一生涯変わらないものなどそうそうないだろう。矛盾とは変化と言ってもいい。それを恐れる理由がどこまであるだろうか。
それは時間軸を無視している。もう記憶も曖昧な小さな頃の感情を今さら持ち出して矛盾しているというのは違う。そう言う人もいるだろう。確かにそれはそうだ。他者との関係で見た時に、時間という要素は無視できない。「10年前に言ったことと違う」と「昨日言ったことと違う」では、まず後者の方が非難を浴びるだろう。
ただ、これはあくまで他者から見た時の程度問題でしかない。結局相手が納得するかしないかだけの話だ。その矛盾が20年間のスパンであれ、数時間のスパンであれ、今この瞬間にあるのはその事実だけだ。納得してないとすれば、自分自身に納得できていないのだろう。
それはそれで自分の選択だ。折角なのでここで伝えたいのは、その矛盾を自分の中では受け入れ、向き合うという選択肢もあるということだ。自分の内面から出てきたものを、事実として受け止める、受け入れる。それが他人から見れば「矛盾」だとしても。それこそ本当の意味で自分と向き合う、その一歩になるかもしれない。
このテーマは、このブログの本質でもある。このブログは矛盾で溢れている。あの記事とこの記事で言っていることが違う、正反対だ。そう思う人もいるだろう。でも仕方がない。どちらも本当のことなのだから。
ただこれも、矛盾の中で生きる、という一つの選択肢にすぎない。最後は何を選択するのか、でしかない。